昭和四十六年六月十三日 朝の御理解
X御理解第七十一節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
ここへは信心の稽古をしに来るのである。先ずここんところを果たしてこうやって日々お参りをさして頂いておるが、信心の稽古に通うて来ておるが、内容が稽古になっておるか最後のところに、壮健な時にここへ参って信心の稽古をしておけと、壮健(まめ)な時、健康な時、健康な時とは何でもない時という意味でしょうね、私どものまあいろんな事を引っ括めて、私どもの一生なら一生というものを思うて見ましても、一年なら一年を思うて見ましても、一月なら一月を思うて見ましても、この壮健な時、いうなら何でもない時の時間が一番多い筈です。ですから、ここんとこの御理解を頂き損ねますとね、自分の都合のよい時だけ参りゃよいと言ったような感じを受けんでもないですけれども、そうではないですね。何でもない時に本気で信心の稽古をしておけ、しかもここには信心の稽古に来るのである。だから、ここの真中に夜、夜中いつどういう事が起きらないとも限らない、夜、夜中とは夜、夜中と、夜とか夜中とかいう意味じゃない、何時ということ。いつ何どきどういう事が起きらんとは限らんとこういう意味である。そういう時にです、おかげは我が家で受ける、そういう時に慌てずにすむ、そういう時におかげは我が家で受けよという、そういう時その場その場で、おかげを受ける程しの信心の稽古を常日頃ちゃんとしておけよと言う、その為にここに信心の稽古に通うて来いとこういう訳である。
ところがどうでしょう、信心の稽古ではないお参りはお参りになっている。いわゆる難儀を感じる時にお願いにお参りをするとか、お伺いにお参りをするとか、いうならば本当は参りにくい時に参ってくる。そして参りよい時には信心の稽古を疎かにしておる。これではね矢張りおかげは受けられません。本当のおかげが受けられません。常日頃しっかり信心の稽古をしておく、しかも本気で信心の稽古をさして頂く、成る程お参りをするからには、心からおかげを受けておる御礼も申し上げる、また不行き届きのところはお詫びもさして貰う。また日々の様々な人事百般、それこそ牛馬の事に至るまでお取次を頂いてお願いをする。そのお願いをする、お詫びをする、又は御礼を申し上げると言ったような事柄その内容をです、内容として信心の稽古をさせて頂こうと言うものである。
どうでしょうかね、本当にお互いが信心の稽古に通うて来ておるという、姿勢になっておるだろうか、折角こうして朝参りを沢山なさいます、さ今日も信心の稽古をしに教会にお参りをする、勿論その内容はです、新たな信心の新知識とでも申しましょうか、そういう事を教えて頂くのと同時に、いま申しますように御礼も申し上げねばならん、お詫びも申し上げねばならん、同時にお願いをさせて頂く事は沢山ある。だから、そこん所だけで終わって終って稽古の方が疎かになる。もちろん合楽でこうして皆さん教典を開かれて、しかもそれを一々ノートされて、成る程これは誰がみても、私はこういうお広前は先ずないと思う位ですね。これだけ沢山皆さんがお参りになって、しかも皆さんが雑嚢のようなカバンを一々携げて、ちゃんと教典から筆記道具から、を持ってお参りをされるという教会は本当にすくない。それは一人か二人か位はあるかも知れませんが、全部がこんな言わば勉強に通うて来ておるような、格好だけはですよ、して稽古をなさってるところは本当に少ないと思うけれどもね、只その学問と違いますからね、その事を覚えて帰るというだけじゃいかんです、自分の身についていかなければ、信心が、はあこういう事理(ことわけ)のものである。こういう道理のものである。成る程こういう生き方こそ真の生き方であろうという、それを自分の身の上に、社会の上にそれを表して行くということ。いわゆる今月の焦点であるところの、そういう意味に於いて信心の内容をお育て頂くということ。そのお育て頂くいわゆる稽古をさせて頂いたことを、実際の持ち場、立場に於いて表して行くということ。これはもう何時も私の心にそれを想い続け、祈り続けさせて頂くことです。
昨日は美登里会でしたから、美登里会の皆さんにも聞いて頂いた事ですけれども、私が頂いておるおかげ、自分の心の上に、又は家庭の上に、いわゆる形の上にもです、頂いておる私のおかげをです、皆さんに頂いて貰いたい。私が心の中に頂いておる信心内容というものを、皆さんがみんな頂いて下さることに精進されなさったら、世の中がそれこそ素晴らしい世の中、素晴らしい事柄になって来る事であろう。これが社会に広められて行く時に、この世は苦の世、苦の世界でもない。本当に極楽の世界であることを気付かれるであろう。日々が有り難い勿体ないというて過ごせるだろう。ああこれが極楽というのであろうかと自分の心の中に安らぎを感じ、喜びを感じ、不平を思わんで済む、不平を感じんで済む程しのおかげ、そういうおかげをね、皆さんに頂いて貰いたい。これはもう切に切に祈り願うことです。
私は、しかも私の信心はこれだけの事じゃない。これからも、もっともっと深く広く垢抜けのして行くことであろう。だからこれを皆さんに聞いて貰いたい、これを皆さんに稽古して貰うというなら、そこんところを稽古して貰いたい。その為にはこういう時にはこういう生き方、こういう時にはこういう見方、いわゆる本当の見方、本当の感じ方をです、体得さして頂くというところに、それなら私が日々誰から見られても、現在本当に結構なおかげ頂いております。かと言うてそんなら結構な事ばっかりではない、なら私の過去の修行時代の事を言うたら、もうそれこそ信心しとって、どうしてあんな難儀な事が続くであろうかと言うような中にもあった。だからそういう中にあった時に、私はいかにその事を問題とせずして、それを自分の信心で頂いて来たかと、例えばこのような難儀な中、普通から言うたらもうそれこそ無い無いずくしの中に、お金はない、食うものはない、着るものはないと言うようなです、本当に無い無いずくしの中から、本当にそんなに有り難いのですか、と人が言うくらい有り難い生活に浸られたということ。
だから、お互いが稽古をさせて頂くというならね、そこんところを稽古させて頂く。先生今のような難儀な中にとても稽古のあったものじゃありません、喜びなんかあったものじゃありません。それだったら稽古をしょうという気は、本当にどういう中にも喜び頂かれる道があるとするなら、本当にそういう道を教えて下さい、本当の道を教えて貰うたらその道を歩かせて貰う。そういう教えがあるならばその道を教えて貰う。という姿勢がね、お互いの中に出来るそこんところがです、ここには信心の稽古に来るところなのである。まあ言うならば此処では皆さんの、私をそういう意味に於いての先生である師匠なのだから、壮健な時にここに参って信心しとけと言うことは、何でもない時は、人間は何でもない時が殆どなんですよ実を言うたら。そんなに何時も病気しておる時とか、何時も借金の催促を受けておるとか、ただ一日の中に借金負うとっても、借金の催促受けても、それは三十分か一時の間なのです。病気をしとると言うても、年の内何べんか頭が痛かったり、腹がせいたりする位のことなんである。それは中には病院にもう何年と入院しとる人もありますけれども、人間はですそういう何でもない時、壮健な時が一番多いのです。その一番多い時をです、信心の稽古をせんで我が儘気儘な事をさして頂いて、いよいよさあ腹がせき出して、頭が痛み出した、慌てて信心、さあ神様にお願いしますと、だから成る程そういう時代もあってよいのです。けれども私ども段々わからせて頂いたら、本気で信心の稽古に通わせて頂くと同時に信心の稽古をです日常生活の上に表して行くということ。
昨日の神前奉仕の当番が上野先生でした。それで夜の御祈念を終わって、皆さんにお話を聞いて頂いておる訳です。そこで右の方の御結界についておる、私はここについております。先生声が小さいものですから、よく同時に私は耳が遠いから、よく聞きとることが出来ない。もうこんなにして聞いとるけれども、ひとつも分からない、細々しいところが聞こえない。その中で学院で修行させて頂いている時に、何か神様にお知らせを頂いている時のことを話しているようでありました。その中にね神様のお夢の中でか、御祈念中かでしょう、そこは聞きとれませんでしたけれども、ただ信心する人の真の信心なきことと言うこと、を繰り返して二へん頂いたという意味のことを話しておるのです。信心する人の真の信心なきこと、今日私が皆さんに聞いて貰っている事もそれなのです。
お互いが皆信心しとる訳ですね、皆さんここにお参りして来とる人はみな合楽の御信者さんなのです。ですから信心をしている訳なのです。けれどもお互いが信心の稽古をしとらん。成る程お話も頂きよる、毎日ノートを出してから筆記もしょる、もう皆さん家には何十冊とノートがたまっておる事だろうと思うけれどもです、果たしてそういう稽古をさせて頂きながらです、何処のところに焦点を置いておるか、信心はしとるけれども、真の信心なき事と仰せられるようにと、真の信心を目指してはいない、だから真のおかげが表れておらんではないか、真の信心には真のおかげが付きものなんだ。それは私が日々思い続けさせて頂いておるように、自分の心の中に不平を思わんで済む、言わんで済む、いろんな見方、考え方がみな有り難いと思えるような、いわば物の見方、考え方が出来るようにならせて頂くという、そういう処に焦点を置く信心こそ、真の信心を目指して行くものの姿勢、姿でなければならん。それなのに答えは不平であり不足である。有り難いという答えではなくて、苦い思いが、例えば答えであるとするならです、全然焦点を間違えておると、本気で稽古していないと言うことを知らなければならん。信心する人の真の信心なきこと。
そこで真の信心とは、真の信心とはとお互いが焦点を置いての信心でなからなければならん。稽古も真の信心を目指しての稽古じゃなけりゃならん。信心というものが生活の為にあるのではない、宗教は生活の為にあるのではない。宗教は、信心は生活のために存在しているように思うておる。苦しい時、悲しい時に頼むのが信心のように思っておる、そうではない、私どもの生活のすべて、そのすべての生活のために信心があるのではなくて、私どもが頂いている信心をわからして頂く事のために、すべての生活があるということ。ここのところで眼目がはっきりして来る訳です。信心とはこの世で有り難いなあ、勿体ないなあと、不平をいわんで済む、不平を思わんで済むと言ったようなことではなくて、そういう有り難い心持ちがあの世までも持って行け、しかもこの世にも残しておける程しの大変なことそれが信心、それが宗教、宗教の使命でもある。それを分からせると言うことは、金光様の御信心に於いても然りなのである。神様でも仏様でもそこのところを人間氏子に納得して貰いたい、分かって貰いたい、まあ私は外の宗教の事は知らんけど、じゃないかと思うのです。
ですから私ども金光様の御信心もです、信心とはそのような大変な事なのだ、それもこの世だけの事でないのですから、この世での事はほん僅かなこと、僅かな時間、いわば五十年か百年位の事なのである。その五十年か百年かの間をです、いつまで続くか分からん永劫、私どもがいわゆる安楽なおかげと言うか、極楽のおかげというか、そういうおかげを頂かして頂くことの為にです、私どもはこの世に生を受けてきておる。だから私どもの生活があるのだと言うこと。だから大変な事なんですよ言うと、信心の為に宗教のために、私どもの生活のすべてがあるのです。痛いこともあれば痒いこともある、腹の立つような思いをする事があるけども、その全てが信心の為にあるのです。そういう信心をね、お互い身につけて行くと言うことが信心の稽古であり真の信心の実践なのである。
私はもう本当に皆さんに思います、もう一人一人がです、私が心の中に開いていきよる信心、有り難い心というか、私が日々おかげを受けておると言う事実、これをね合楽に縁のある人に一人一人聞いて貰いたい、伝えても貰いたい、そして皆さんも自分の心の上に、家庭の上にそれを表して頂きたい。職場で表して頂きたい。もうこれを願うにつけ、思うにつけ、皆さんに本当に納得して貰うためにはどういう、いうならば教導させて頂いたらよいかともう本当に思いますけど、私の力不足で皆さんに徹底することは出来ませんけれども、これはもう真実そうです。その人は先生もうこんな苦しい事はありませんと言うけれども、それと同じ事を私が心の中で思うて見てです、それは、あなた苦しい事の段じゃなかじゃないの、日頃願ってある信心の、日頃頂きたいと言うておる真の信心の、これはもう素晴らしい根肥やしじゃないの、日頃あんた達が願うておる、真の信心と言うておる、その真の信心を頂く為にそこんところを、有り難く合掌して受けて行かねば何時までたっても真の信心には入っては行かれんよと、言うような事を、もう先生難儀なことをと言って嘆き悲しんでいるのですからね。
私にとっても、もうこういう素晴らしいチヤンスはなかろう、こういう有り難いことはない事を皆そう言うているのですから、そこにはそういう頂き方しかする道がなくて、それにはこの様にその事でも有り難く頂かせて頂けれる道を日頃教えて頂いておるのに、ただ聞くだけノートしているだけですから、いよいよの時に役にたっていない。それはお互いがここに信心の稽古に通うて来ていないからだ。お参りはしてきておるけれども、それは稽古のいわば実際問題を以て、神様が稽古させようとして下さっておる、日頃教えて頂いとること、稽古させて頂いておる事をここに表すチヤンスを与えられて居るのだけれども、それをチヤンスとも思わず、私だけがどうしてこの様に貧乏くじを引かんならんのだろうかと言うような意味のことをいう、ちょっとも稽古になってない。
この頃には信心の稽古に来るところ、昨日上野先生がお話しておるのを聞かせて頂きながら、聞こえないものですから、しっかりこうして聞いとるけれども、聞こえたところは、信心する人の真の信心なきこと、と言うことであった。しかも二言も続けて神様にお知らせを頂いてと言う話をしておりました。お互いがです、信心はしとるけれども、真の信心ではない事を先ずしらなければいけません。そして、それなら真の信心とはどういうような信心にならせて頂いたら、真の信心にならせて頂くかと言うこと。余りにお互い日常生活の中に悩みが多すぎる、心配が多すぎる、不平が多すぎる、不足に思うことが多すぎる。これでは信心頂いとる値打ちはない。そういう今申しました様な事柄をです、真の信心させて頂く、いわば信心の実験とでも申しますかね、そういう問題を踏んまえて、真の信心を分からせて頂こうと言う事になって来ると、その問題そのものが有り難くなって来るのであり、その問題そのものがです、真の道のいわば指し示して下さる神様の御神意であり、神愛である事がわかって参ります。ここんところ皆さん本気で一つ、皆さんの信心の精進に依ってです、稽古をさせて頂く姿勢を本当にとらせて頂いて、そういう生き方が出来れる、そしてこの調子で行けば真の信心になれるぞと、それには真のおかげがいやと言うてもついて来るのだぞと言うですね、見通しの付くところ迄ぐらい、お互い真の信心の稽古の姿勢をつくらねばいけない。
昨日、その上野先生の話を聞きながら分からんから、どういう事言いよるのじゃろうかと思うて一生懸命聞きよるけど分からん、分からんから神様にお願いさせて頂きよったらね、皆さんは知られない方が多いかも知れませんが、私どもは北支の方におりましたからね、麻雀とか花札とかいう、いわゆる「バクチ」の材料ですけどね、私は麻雀もやる、花札もやる、けれども自分で好きでやった事がない、もうしやっちお付き合いでせんならんけんするけれども、だから筋道だけは私は知っている。けれども、こげん馬鹿らしい事はなか、こげん下作な事もなか、遊びはないと思うですね。「バクチ」を打つと言うほど、人間のもう屑のもののする遊びですよ。この事を前置きして話を聞いて頂かんと、私がいかにもそういう事が好きだと思われてはいけんからね、花札なんかも一通りはやはりこなします。
その中にね花札の中に桜の札があります。あれは皆四枚宛てあるのですよ、例えば空のが二枚、十てんものが一枚、五十てんのものが一枚、その十点、空ではない十点の花を桜の花に短冊が確か掛かっとったと思う、それを頂くのです。ははあ、これが上野先生の信心だろうと思いました。真に信心を目指して頂いております、そのまあ十点札のところじゃろうとこう思います。あれが一番上の五十点札というと、桜の花が一ぱい満開のところに紅白の幔幕が張ってある真ん中では、やはり宴会でもあっておるだろうと言うような絵が、空は桜の花が一枝ついとるだけ、それが空札ですから私どもが信心の稽古をさして頂く、桜を頂いたのは、まあ合楽の信心が桜の花のようなと思いますね。私の性格は華やかです。大体は桜の花の信心よりも、梅の花の信心をせよと仰しゃるのですけども、私の信心性格がどうも桜の花のような華やかなものがある。ですから私の信心のおかげもだから華やかです。
けどもその内容として、これは合楽の信心理想、私の信心理想でもあります。『梅の香りを桜にもたせ、しだれ柳に咲かせたい』これが私の信心の内容だと私思うとります。成る程桜の花の信心だけれどもね、その中には梅の花の信心辛抱と言うものを、自分には欠けておるのだから、ここんところを精進努力せなければならん位と思うております。柳のような素直さがその中になからなければ、華やかな賑やかな性格の中に信心辛抱と、柳のような素直さが入って、本当の合楽の信心だという風に私が申しますように、根は私の信心は何と言うても桜、ここに御縁を頂かれた人達もやはり、類は類を以て集まるという位ですから、まあ桜の花の信心だろうとこう思います。ですから、そこんところに成る程信心辛抱が欠けておる、素直さが欠けておる、上野先生なんかもそこんところを、やはり頂いて行かねばならん。
段々稽古させて頂いて、いわば十点ものの実ものと申しますか、実があるところ迄おかげ頂いとるから、いよいよ五十点ものを目指して信心の稽古をして行かなければならん。その五十点ものの桜とはどういうものかと言うとですね、いつも有り難き、勿体なきが伴うとると言うこと。あの五十ものの花札の絵を見るとね、桜の花が満開、そこに紅白の幔幕を張ってある、恐らく中では酒盛りがあって居るだろうと言う絵です。酒盛りと言う事は有り難き、勿体なき、畏れ多き、ですからどのような場合であってもです、有り難い、勿体ない、相済まん、と言ったようなものがその答えに於いて出て来なければならない。そこに難儀を感ずるならです、その難儀なこと自体が有り難く受けられればもうそれでよい、有り難く受けられんならば相済まんと言う心で受けなければならん。それをどうして受けとるかと言うと、どうしてこういう難儀が起きて来るじゃろうかと、丸っきり他から湧いて来たように思う、自分の心からのもの、その難儀と言うものは作っておるのです。
お互いがお詫びこそせなければならん、御礼こそ申し上げねばならない、そういう心の状態、どのような場合であっても、いわゆる花見で一杯というやつです。その花見て一杯が出来る答えが出て来なければならない。どんな場合でも本当に相済まんと思います、有り難いと思います、それではどういう事があってもその答えが出て来るような信心の稽古、そこに焦点を合わせて行きながらの、信心の稽古でなからなければならないと言うことなのです。私が今こういう心にならして頂いたら自分も助かるが家の中も助かる、それに関わり合いのある人も助かる、そういうおかげを頂いたらどんなに世の中が有り難い事になって来るであろうかと思っておると言うのは、そういう稽古からしか生まれて来んのです。それではここに本気で信心に通うて来なければいけない。いわゆる壮健な時ここに参って信心の稽古をしとる、何か頼みごとがある時に参るのじゃない、壮健な時である、何もない時なのである。神様にお願いする事もない時に、本気で信心の稽古をしておけとここでは教えて居られるのだと思うです。
本当にですね先程から、どんなに無い無いづくしの中にあっても、有り難うして有り難うしてこたえんと言うような道があるのです。ですから、その道を体得する為にここに来なければ駄目なのです。そこから現在です無い無いづくし処ではない、それこそあり余る程のおかげ頂ける、どうぞお金のお繰合わせ下さい、どうぞ食べ物、着物のおかげ下さいなんて願うた事も思うた事もない、けども神様は弥が上にも下さった。神様はそういう心に、それが真の信心があった証拠に真のそうしたおかげが伴うて来るのです。信心する人の真の信心なきこと、これを天地の親神様の悲しみのお言葉でしょうね。これだけ沢山参って来よるけれども、真の信心する人は極くまれだと言うわけでしょう。
だがせめて合楽に御神縁を頂いてお参りに来る方達は、私自身がよい手本を皆さんに示しながら、皆さんに聞いて貰ったり、見て貰ったりしとるのですから、そこんところを見て貰い、そこんところを聞いて貰って、それに習わせて頂くところも、稽古しておかげも被って行かねばならない。日々が不平も思う事もなからなければ、不平を言うこともない程しのおかげをですね頂いて貰いたい。それが真の信心なのです。不平を思うたり不足を感ずる時には、もう真の信心の道を少しもうそれておる時だと思うて、どうでもそこに相済みませんとか、有り難とうございますとか、答えの出るところまで信心を追求し、自分の心を見極めて行かねばいけません。信心さして頂くことに依って自分がわかる、貴方は人間が少しルーズですよと、貴方は少し意地が悪いですよと言うような意味のことを言ったと頂いたら、私のどこがルーズですか、私のどこが意地が悪いですかと言われたら、こげんがっかりする事はありませんね。
昨日私、ビールのルがまいっちょついとると言うお知らせを頂いたと話しました。その方が昨日夕方また参って来ましたからね、今日の御理解を頂いたと言われますから、今日の御理解は実はあなたの事でしたよと言うたら、私のどこがルーズですかと言うことを、えらい説明されるのです。もう私は言う言葉も知らなかった。本当に自分を見極めると言うことが信心なのです。本当ですもんね、私がルーズですから、こういう難儀な問題が起きとるとですもんね。これは私のルーズがこういう問題を作っとるのですと、いう風に言われるものと思うておった。私は嘘も言わぬけれどルーズでもないと言う意味のことを説明される、もう言いようがないですね。
態々指摘して言われても、お互いがああ、あれは人の事じゃろうと思わずに、自分自身の事と思うて見てごらんなさい。ルーズな心も、意地の悪い心も、汚い心も、自分の心の中には一ぱいなんです、それをいよいよ分かって行く事が信心なのです。ですから、そういう事に本気で取り組ませて頂くと言うような事も、信心の心には大変大切な事なのです。そういう汚い自分がルーズな自分であるのにも拘わらず、この様なおかげと言うところから勿体ないなあと言う事になるのですよ。自分のような者にこの様なおかげを頂いておる事は有り難いなあと言う事になって来るのです。ですから自分自身をいよいよ有り難いものにして行く為には自分自身がまず分からなければならない。自分自身をいよいよルーズな私、汚い自分であると言うことを究めて行く事もまた大事でございます。 どうぞ。